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地震と共存するしかない日本

 投稿者:四郎  投稿日:2016年 8月31日(水)20時54分56秒
返信・引用
  先ほど、19時46分、久しぶりにやや大きめの地震がありました。
マグニチュード4.9、最大震度5弱。
四月の本震直後の数日を除けば、1~2位の大きさです。
震源から遠いため、我が家近辺の揺れは震度3。
揺れが来た瞬間は、「また、余震か」とのんびりしていましたが、、いつもより少し大きく揺れだすと、慌てて居間の窓を大きく開け、いつでも飛び出せるようにしました。
幸い、棚から物が落ちるほどのことはありませんでしたが、今でも半壊状態の家で危険を承知で暮らす人達がいます。
この地震で被害が出なかったことを祈ります。

鹿児島の三反園知事が、九州電力に川内原発の運転停止を申し入れました。
「そこまでする必要はない。」と思う人の方が多いのかも知れません。
しかし、2011年3月15日に福島原発で水素爆発が起きた時の、絶望感と悔しさは忘れません。
これで日本も終わるという思いと、余りにも楽観的な日本の原子力政策に大きな怒りを感じました。
その後、菅首相が静岡の浜岡原発を停止したときに少し安堵しました。

日本は地震国です。
2011年の地震も千年に一度は必ず来るものでした。
私もこの3月までは「この付近は地震の心配もなくて良かった。」と安心していました。
しかし、活断層があろうが無かろうが、日本のどこにいてもいつかは大きな地震が来る事に気付きました。
地質学的にも、九州は数万年後(?)には中央部分が海に沈み、北と南に分断されることが定説となっています。
それまでに、とてつもなく大きな地震が何回と起こり、丈夫な原発でもひとたまりもないことでしょう。
東北震災も、津波と地震だけなら復興は短期間で達成できたと思います。
しかし、放射能に汚染された原発周辺に、人が住めるのはかなり先のことでしょう。
また、日本の様々な農水産物や工業製品が「風評被害」によって、輸出しにくい状況が続いています。
地震が来るたびに、原発があることの不安を感じます。
「日本が多少無理をしてでも原発を維持するのは、核兵器保有への選択肢を残すためである。」
以前そんな分析を聞いた事があります。
廃棄物の処分費用まで算入したとき、原発は火力以上に高いコストです。
温暖化防止も、他の手段が多くあります。
それでも原発を残すのは、公表しにくい理由があるとしか思えません。
 
 

第3日・本番

 投稿者:四郎  投稿日:2016年 4月17日(日)21時13分16秒
返信・引用
  未明01時半頃、激しい振動に目を覚ます。
家がきしむのは28時間前と同じだが、周囲のものが暴れまわり、「これでもか」とでも言うようかのに、徹底的なまでの激しさを感じた。
これは現実の出来事なのだろうかと、不思議な気がしたが、不思議と恐怖は感じなかった。
「家族を守らねば」と、階下に降り無事を確認した。
靴を履くこと、ライトを持つこと、車のカギと携帯を確認したころには揺れも少しおさまった。
頭に枕を乗せ、片手に毛布をつかんで車に乗り込んだ。
隣家の母は、その時室内にいたか、外にいたか、おとといのことなのにもう覚えていない。
ワゴン車の中で2時間ほど四人で過ごした。
何回も大きな揺れに車が揺さぶられる。
車のラジオから流れるニュースには大きな被害の様子が報じられており、びっくりしながら聞き入った。

気づくと私はポロシャツにパンツ一枚の寝姿のままだった。
寒いので、怖いけど家に飛び込み、家族4人分の毛布とズボンを取りに向かう

余震が来れば命をなくすかもしれないと思うと、1秒も長居したくなかった。
明け方近く、眠くなったので、それぞれに分散して車で寝る

翌朝家を見ると、初日の被害の何倍もの光景があった。
母の家の瓦は大半が落ち、壁もいくらか落ちていた。
我が家も瓦が昨日の数倍も落ち、壁にはひびが入っている。
電気は震災直後に停電。
水道は朝一番は少し出たが、やがて止まった。
時折、びっくりするような地震が再三やってくる。
上空に飛び回るヘリコプター、ひっきりなしに聞こえるサイレンや行政や自治会の放送、避難所の案内。
その光景は、まさしく5年前の大船渡の被災地の喧騒そのものだった。
ただ、あの時の津波による壊滅的な風景と異なり、まだ日常が残っている。
しかし、各家をよく見ると様々に痛んでいるのが見える。

 

第2日・金曜

 投稿者:四郎  投稿日:2016年 4月17日(日)20時33分32秒
返信・引用 編集済
  第2日
第一夜は、未明の2時くらいには落ち着きを取り戻したが余震は数多く、車3台に4人が分かれて寝た。
隣家の二人は平屋で丈夫な構造のため、家で寝ることとなった。
夜が明けると、職場(学校)へ出勤。
早朝に休校の連絡があったが、遠方の生徒はすでに登校していた。
震源に近い職員は出勤できていない。
被災職員に電話で安否を確認し、手伝いを申し出たが、「大丈夫」とのことで、職場の仕事が一段落後休暇を取って自宅の修復に向かう。
途中ホームセンターでブルーシートを買うが、大半は売り切れ、超薄手の安物と、半端なサイズのものだけが残っていた。数枚買って帰る。
自宅に帰り、屋根からずり落ちた瓦の片づけ。自宅と母の家の2軒分をトラックに乗せ、臨時に設けられた、無料廃棄物捨て場へ向かう。1トン程度(?)を捨て、ほっとする。
屋根直しの業者を呼び、瓦の補修と明後日に予想される雨対策を頼む。
余震も落ち着きを見せていたので、自宅に戻った。
電気も水道も被害はなく、プロパンガスも使えるので何ら生活に不都合はない。
妻と娘は安全な一階の平屋部分に寝かせ、私は2階のベッドに寝ることとした。
想定外の震災だったけど、「これも人生」と割り切って、効率的に後始末のできた良い一日だった。

 

震災4日目

 投稿者:四郎  投稿日:2016年 4月17日(日)15時57分37秒
返信・引用
  もう4日目なのかと思う。
最初の地震が14日(木)の夜だったので、3晩を過ごした。
14日の晩は、こたつに入ってうたた寝をしていた。
突然の揺れに目が覚めたが、寝ぼけていて自分が今いる時間も場所もわからず、ましてや地震とわかるまでに少し時間がかかった。
我が家は構造上の欠陥を抱えているため、揺れにあまり強いと思っていない。
倒壊を恐れて、自宅の平屋部分に家族で身を寄せ、揺れの収まるのを待った。
一分(?)ほどで揺れが収まり、車に避難した。
隣の古い家に住む母の様子を見に行くと無事だったが、その直後に大きな余震が来た。
揺れる建物の中を母の手を引いて勝手口までたどり着き、揺れが収まってから車に入れた。
それから一晩車で過ごした。
途中、隣に住む高齢の二人暮らしの様子を見に行き、安否確認をした。
しかし、車に入った直後は、気になりながらも、自分と自分の家族の安全を守ることに精いっぱいで、隣家に入って声をかけることすらできなかった。

三晩とも睡眠不足ながら、昨日までは雨に備えての仕事で夜遅くまで作業の連続だった。
今朝は軽い頭痛もあり、気分が乗らない。
昼寝をして多少元気も出たが、こうしてパソコンに向かっている。
記録に残そうと思いながら、この四日写真を撮る気力もない。
すでに余震も三・四百回を超え、その度に緊張する。
「もう、どうでもいい」という気持ちも半分ある。
やるべき作業があまりにも膨大で、見通しが立たない。
五年前に大船渡で出会った被災者の一人の顔と言葉が思い出される。



 

平成28年熊本地震

 投稿者:四郎  投稿日:2016年 4月16日(土)18時10分15秒
返信・引用 編集済
  久々の投稿です。
そろそろ休眠ブログとして、削除される心配もあっての投稿です。
一昨日の夜、そして今朝未明の大きな揺れ、家に住むのは怖くて、田舎のプレハブ納屋暮らしです。
先ほどやっと電気が通りました。
今朝、水道も出たので、家で生活できなくはないのですが、家具も倒れ散乱した仲で土足で動き回り、風呂に入るときもヘルメット片手の生活です。
この48時間で余震は数知れず、家に入るときは命がけです。
5年前の東北震災ボランティアの時、余震におびえたのを思い出します。
電気が通って少しほっとしたので、パソコンから情報を得ています。
 

風評被害・その1

 投稿者:益田  投稿日:2012年 8月 7日(火)01時18分29秒
返信・引用 編集済
  7月の阿蘇豪雨で、私の息子の親しかった友人が亡くなりました。
未明の土砂崩れに巻き込まれ、大きな岩の下敷きとなったそうです。
亡くなる数日前に、息子達数人で一緒に天草へキャンプに行ったばかりでした。
新聞に掲載された被災地の写真には、土砂から車体の半分だけをのぞかせた彼の車がありました。
お母さんとの二人暮らし。
残された母親の気持ちを思うと、辛いです。

阿蘇の観光地はこの夏、どこも閑古鳥が鳴いていると聞きます。
確かに、国道57号線と豊肥本線の一部は復旧していないので、大分県側との通行には不便なものがあると思います。
しかし、極端な観光客の減少の理由はそれではなく、
「阿蘇は危険だ。」「宿泊施設や観光地の多くが機能していないらしい。」
といった、事実と異なる情報による「風評被害」によるものだそうです。

先日のニュースでは、浸水で被災した旅館が、そこを毎年合宿に使っていた地元の高校剣道部生徒達による復旧ボランティアのおかげで、営業再開ができた話が報じられていました。
「ボランティアの力がなければ、こんなに早くは営業ができなかった。とても勇気づけられました。」と、涙ながらに話す女将さんの姿に胸を打たれました。
この旅館の復旧全体の中で、生徒達の果たした役割がどれだけの大きさかわかりませんが、その大小ではなく「世の中は善意に溢れている。」ということに、女将さんは大きな勇気をもらったようでした。

一方、ある学校のこんな話も聞きました。
その学校は、修学旅行先として毎年1月に福島県のスキー場を利用していたそうです。
福島の地理や文化も学習し、スキー指導員との人間的な交流も有ったと思います。
しかし、3月11日の後、10ヶ月後に迫った旅行の行先を、急遽長野県に変更しました。
同時に、次年度の旅行先も決定の時期であったため、やはり長野県としました。
当時は、放射能拡散の様子も十分にはわからず、やむを得ない決断だったと思います。

それから1年経った今年の初夏、一年半先の修学旅行先を決める時期となったそうです。
事故から1年以上経ち、放射能拡散の状況もかなり正確にわかってきました。
従来の旅行先の福島県西部は、ほとんど放射能の影響を受けていません。
旅行業者からも、長野プランと並び、福島プランの提案が何社も有ったそうです。
しかし、業者提出の多様な旅行プランの中から、最初に消去されたのは、「フクシマ」を旅行先とするプランでした。
「安全だというのはわかる。しかし、保護者から反対が出るかもしれない。」
福島案が危険だと思う検討委員は一人もいないにもかかわらず、福島案は却下となったそうです。

教育は社会正義を広げる源です。
たとえ、社会に偏見が満ちあふれていても、目指すべき理想を提示し、それに至る理論と具体的道筋を示すのが学校だと思います。
根拠のない誤った論理に対しては、きちんと説明し説得すべき責務を負うと思います。
「フクシマの選択も正しいとは思うが、一部でも保護者の反論が出たら大変だから、無難な選択をする。」
という意見は、いじめや差別にみられる「傍観者」の論理に思えてなりません。

 もし学校が「フクシマを救おう」と声を上げたら、
 反対する保護者と生徒の前で議論をしたら、
 生徒達と共にフクシマに赴き、福島の人たちとふれ合えたら、

素晴らしい教育効果があるように思えるテーマなのですが・・・
 

その後

 投稿者:四郎  投稿日:2012年 2月 5日(日)13時43分57秒
返信・引用 編集済
  今日の熊日新聞の文化面に、芥川賞、直木賞の受賞者の文章と並び、安吾賞を受賞した写真家の荒木経惟氏のコメントが並んでいました。
彼は写真家でありながら、被災地へ取材には行かなかったそうです。
「すごい光景や、何もなくなった廃墟を『ステキだ、ステキだ』って喜々として撮りだしちゃうのが自分でわかるから。」
彼のコメントを読み、自分の邪心を恥じると共に、彼の強さと誠実さを感じました。
彼が昨秋刊行した写真集は、身近な周囲の日常を撮ったネガにハサミで傷を入れ、亀裂の入った日常ばかりを表現したものだそうです。
被災が日本人の心に傷を残し、以前の日常が壊れてしまったというのは自分でも感じます。
しかし、被災後やがて一年。
社会は次第に日常を取り戻し、被災地が徐々に忘れられつつあるのを感じます。

8月に玉名で、9月に菊池で震災ボランティアの報告をしました。
報告内容は、この掲示板の内容が中心となるものでした。
今思うと、一番伝えなければならないことを伝えなかったと後悔しています。
私が話したのは、被災者の苦労ではなく、ボランティアに行った自分の苦労話でした。
事実を並べるだけで、何らメッセージがこもっていなかったように思います。

菊池の報告の際は、山鹿市職労から宮城県へボランティアに行った青年も一緒でした。
彼は最後に、放射能の風評被害によって打撃を受けた現地の農業支援のため、
「不正確な情報に惑わされず、現地の農産物を購入して支援をしよう。」と結びました。
被災地を支援するためには、痛みの共感だけでなく、具体的支援が必要なことを思い知りました。

この半年、復興支援に向けての様々なニュースがありました。
最近聞いたものでは、震災瓦礫の運び込みを拒否する住民の意見が有りました。
復興増税や、1ミリシーベルト以下を目標とした、経費のかかる広範囲の除染に対しても賛否両論がしのぎを削っています。
日本の財政を考えたら、巨額な除染費用は負担できないというのもわかりますが、被災地で子どもを抱えた親の願いもわかります。
「放射性廃棄物は福島県内に長期貯蔵を」という意見も聞きます。
その方が合理的だと、納得する自分がいます。
しかし、「もし自分が故郷を奪われたら」と思う自分もいます。

これまで日本は合理的方法(経済性)を優先してきたのではないか。
最近そう思うことがあります。
世界の様々な国民の生活スタイル、経済的に貧しくとも国民が世界一幸せと感じている国や、原子力を選ばなかったエネルギー政策の国、弱者保護の社会的施策が行き届いた国。
そんな国々を紹介したニュースが気になります。
しかし、そのためには自分の持つ様々な文明的生活を捨てなければなりません。
震災間もない頃にあった宴席で、「豊かな生活を取るか、脱原発を取るか」の議論が有った際、
「エアコンを捨てでも脱原発を」と主張した私は、今エアコンの効いた部屋でパソコンを叩いています。
 

今日

 投稿者:四郎  投稿日:2011年 9月23日(金)11時23分56秒
返信・引用 編集済
  本日、午後からは菊池山鹿地区の組合の教研に参加して、ボランティアの報告をすることになっています。
先日(8月)は荒尾・玉名の教研で報告をしましたので、段取りはできているのですが、前回は予定時間30分の所を50分以上しゃべってしまいました。
今日は20分で話せとのことですが、どうなるでしょうか。
しかし、4月下旬の体験を5か月近く経って話すことに、少し躊躇します。
その後の現地の状況も変わり、「今」何を話すべきか悩んでいます。
ボランティアの後、自分が何もしていないことにも気付きます。
報告を安易に引き受けた自分を後悔していますが、これも貴重な経験を与えてくれた組合への恩返しだと思っています。
 

写真

 投稿者:四郎  投稿日:2011年 6月 7日(火)22時18分23秒
返信・引用
  1 宿泊所(ブルーシートの上にござ、その上に布団を敷く)

2 半壊の家には様々なマークが描いてある。写真のように複雑なものから、アルファベット一文字だけのものもある。地元の人に聞いても、「自衛隊が書いたもの、アメリカ軍が書いたもの、消防団が書いたもの、何種類もあって意味はわからない。」とか。

3 ホワイトボードに書き出された、今日の仕事一覧とボランティアの割り振り。社協の人が毎日割り振りに苦労されていた。
 

ボランティア求む

 投稿者:四郎  投稿日:2011年 6月 7日(火)22時04分35秒
返信・引用 編集済
  先週金曜日の夕刻、携帯に電話が入った。
「大船渡のボランティアセンターですが、連合さん、明日は来られますか?」
一瞬、何のことか分からず言葉が出なかったが、ボランティア作業現場の打ち合わせだとやがて分かった。
ボランティア期間中、私の携帯が大船渡との連絡手段だったので、そのためだろう。
私が活動を終えてすでに一ヶ月以上経つのに、今なお連合の連絡先として私の電話番号が生きているとは、現地の混乱もまだ続いているのだろうか。

熊本高教組からの次の派遣は、6月末と8月らしい。
学校行事も有りなかなか難しいだろうが、是非誰かに行って欲しい。
最近は、BC(ベースキャンプ)も東和ではなく、かなり被災地に近いところへ移ったらしい。
宿所から被災地まで片道20分(?)と聞いたので、活動時間も十分にとれると思う。
現地での生活も幾らか楽になっただろうか。
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(訂正)
私の以前の投稿で、BC(ベースキャンプ)とBC(ボランティアセンター)を混同して書いた部分があります。
被災地でボランティアの割り振りなどをしているのが、ボランティアセンターで、ベースキャンプは単なる宿泊所です。
携帯からの投稿記事は事後の編集ができないので、この場を借りて訂正します。
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写真は
1 悩まされた魚の群れ
2 作業後に撒く、消毒用の石灰
3 ジャニーズは偉い
 

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